正論くそ野郎になりそうなとき
「日本の200年[新版] 上―― 徳川時代から現代まで」という本は、アメリカ人が書いた日本の近代史の本だ。これが良い。特に文化のところが面白い。まだ上巻しか読んでいないので、のんびりと読むつもり。これは期待できる本だ。
全部読んだら、上記のおすすめの日本史本で紹介しようと思う。
昨日、ガイナーレ鳥取というサッカーチームの試合を見に行った。今年はなかなか勝てない。6連敗中だ。引き分けがあるサッカーでは、6連敗するということは、かなりチーム状態が良くないということだ。
残念ながら、今の実力はそのカテゴリーに見合っていない。好きなチームだから、負けたから、どうこう言うのはないが、やっぱり勝つとうれしいから複雑だ。
そこで、自分の中でモヤモヤしたことを整理する。
このツイートを見てモヤモヤした。
そう言えば、昨日の試合後半に鹿児島の選手が倒れてなかなか立ち上がらなかった時、いつものようにうちのゴール裏から選手や審判に文句やら野次を飛ばす人がいましたが、その人達に止めろ!そんなこと言うな!と後ろから叫んで黙らしたサポさん格好良かったなぁ。相手にも審判にもリスペクト大事。
— :):):)笑い顔(あら、まことさん) (@egaonome) 2017年10月9日
僕はゴール裏の隅っこで応援していたから、「止めろ!そんなこと言うな!」っていう人には気が付かなかった。
確かに後半リードした相手が、時間を有効に使おうと、もしくは負けてるこちら側のあせりから、相手選手の動きが時間稼ぎしているシーンがあった。それを見て、怒号のようなものがあったのも事実だ。
スポーツ観戦をしていると、ヤジや怒号を見かけることがある。子どもと一緒に行くと、やっぱり嫌だ。僕自身も人が怒っているのは見たくない。
ヤジを飛ばしている人を見ると、その人のところに行って、小学校の先生のように「あなたそんな品のない言葉はやめなさい」注意したくなる衝動に駆られる時がある。
確かにヤジや怒号は、美しくない。スタジアムにふさわしくないとも僕は思う。しかし見ている人を熱くさせるのがスポーツだ。そして、日頃さえない人や、なにかストレスを抱えている人、もしくは発達障害の傾向がある人、いろんな人が見に来れるのが、プロのスポーツの良いところだ。
行き過ぎたヤジや怒号は困るが、ある程度のものは仕方がないと許してあげたい。(その線引きがむずかしいから、ヤジや怒号を禁止にするのも一つの手だ。)
それは僕が、小学校でどうしても自分の気持ちを整理できない子どもを教えていたからかもしれない。僕の指導も良くなかったのだが、自分の気持ちを爆発させてしまう。どうしてもけんかしてしまう。そんな子どもを見てきた。もちろんダメなことはダメだけど、どうしてもできない人もいる。大人になってもそんな人がいる。
僕もヤジを飛ばすのは好きじゃないけど、ヤジを飛ばす人に止めろ!っていうのもあんまり好きじゃない。
— トマル(鳥取マガジン編集長) (@t_tomaru) 2017年10月9日
さらに大きい声でポジティブな言葉をかけたいなぁって思う。
正論すぎかな。 https://t.co/e9NwrR3khD
一番上に書いた「笑い顔さん」の発言を受けて、ツイートしたのがこちら。
どこの世界にもやってはいけないことをやってしまう人がいるから、寛容の心を持ち、でもそれだと困るから、自分はプラスになるような行動、発言をする。そんな意味合いでツイートした。幸い「笑い顔」さんは怒らないでいてくれたけど、失礼だった。
今考えると、僕は「正論くそ野郎」だった。どこの世界にも「正論くそ野郎」がいて、正論を連呼する人がいる。「お前に言われなくて、そんなことわかっているよ。」「そんなことわかっているよ、だったらお前がどうにかしろ!」っていうツッコミがはいるのが、正論くそ野郎の発言だ。そいつは自分が正しいと思っているから、たちが悪い。正論くそ野郎は相手にしないのが一番だ。
しかし自分が正しいと思ったことは、「正論くそ野郎」と言われても、言い続ける必要があるし、行動し続ける必要があるとも思っているから難しい。要は覚悟の問題だ。
今回の件は、何が正解はないけど、自分の軽率な発言に後悔している。
考えたことまとめ
いろんな人がいるから寛容の精神を持つ。(限度があるけど)
「正論くそ野郎」にならないように、気を付ける。
正論を人に言うときは、覚悟を持つ。
人に失礼なことをしない。失礼な態度をとったと気が付いたら謝る。